言葉

香港のデモで 意思伝達に手話(?)が使われている様子をBBCの動画で観た

 

https://twitter.com/bbcnewsjapan/status/1148113559743688706?s=21

 

健聴者が健聴者との意思伝達に“手話”という言語を使うというのは 母国語ではない外国語を使うようなものです 

手話 Sign language はverbal communication です  よくBody signと混同されnon varbal communications と思われがちですが 違います 1つの言語です 私たちが使う音声言語と同様に上肢の動き それが作り出す空間の無数の組み合わせでできているからです 

(今、verbalに"言葉の"という意味の他に"口頭の"という意味が含まれていて驚く 口頭での意思伝達、音声言語がいかに社会的価値を持っているかがみてとれる)

 

言葉が思考を作る

人は言葉で考える 言葉によって世界を認識する などと言われています が果たしてそうなのかとずっと疑問におもっています もしこの説に則った場合 Defの人々は手話をもとにして思考しているのか それでは健聴者との思考のメカニズムが大きく異なるような気がして 腑に落ちない

 

よく民族間の虹の色の認識の違いが例に挙げられる ある人は2色にみてるとか あるいは8色とかそういうの

人間は個体差はあるが似た知覚特性を持っています なので同様の色覚知覚はできるが 知覚の差異に命名する必要がないから2色と認識=言葉でラベル化するのではないか

言語化しなくても知覚する差異はありそこにあり虹を7色だと認知する人が虹を美しいと思うように虹を2色だと認知する人もおなじ感情をもっているのではないか

 

こういう疑問が湧いてもなかなか調べないのが私の良くないところです

 

最近読んでいた谷川俊太郎の『ひとり暮らし』というエッセイで

「名前を知らなくても美しいこと」「 知識に頼らない感性がある」と彼は言っている

 

また 進化心理学を基に言語を研究をするスティーブンピンカーは “言語は人間の営みを見る枠である” と表現しています また彼は著書『言語を生み出す本能』で “概念の理解は言語理解の前から可能になる” と述べています

 

「言語によって世界は作られるのか」

「人間の世界を知るための窓が言語なのか」

この問いは簡単に答えが出るものではない

 

では 言語は感性よりも 高尚なものなのか 

同著書で谷川俊太郎はこう言っている

「目の前の一輪の精妙な美しさに驚きと畏敬を感ずるとき、それに名前をつけるという行為が、どこか自然に対する冒瀆とも思えることが私にはあります。」と

 

私は 認知した抽象的で気配の様なものを 言葉という形態に可視化することが難しいと感じながら生きている 認知したものを その曖昧で確かなものを表現するためにまだ知らない数々の言葉を その無数の組み合わせをこれからも探し続ける