Wondering Where I have Been

 

先月、長い時間をかけて制作した初めての zine (写真集) Wondering Where I have Been が完成しました。購入していただいた方に心から感謝しています。(ここから購入できます)

 

私が撮った写真を好きだと言ってくださった方、大変励みになりました。購入を検討されている方、近々シラクマさんの珈琲屋 WEGNER COFFEE ROASTERS の実店舗・Onlineショップで取り扱っていただけることになりました。シラクマさんが焙煎された珈琲が大好きなのでそれらと一緒に購入していただけると更に嬉しいです。シラクマさんありがとうございます!

 

zine の題名 "Wondering Where I have Been” を翻訳すると ”私はどこに居たのだろうか” となります。2021年にカナダに再渡航してから1年間に撮り溜めた、写真という媒体での記録をもとに記憶・言葉・感情について考察したことからこのプロジェクトを始めました。





現像したフィルムを目の前にし、かつて存在した記憶の再確認、言葉で特定が出来ていなかった感情の感覚 (言葉でラベル付けできないけれど確かに存在した心理的反応) を見出して、言葉、特に日常的に第二言語を使用することについて考えるようになった。

 

心理学では子どもの言語獲得と感情の発達過程はある程度同じ速度で進み、人間は言葉で感情を特定 (ラベル付け) をするようになると考えられている。一方で感情がすでに発達した大人が、第二言語を少しずつ獲得し、それらをのみ日常的に使用すると言葉と感情の間に大きなギャップが生まれる。カナダで暮らした3年間、私は稚拙且つ少ない英語の語彙で複雑な感情をラベル付けししようとした結果、感情の細分化・特定に失敗し、全てが乱雑に大カテゴリーに投げ込まれ、感情そのものが稚拙なものに変換されていったのだと思う。

そしてそれを繰り返すうちに、自我が失われていくような感じ、世界との繋がりが薄まり現実感がない、何も覚えられないという状態、全てにおいて確信が持てない、自分と自分を囲む物が崩壊していくような感覚に陥った。

 

そんな何もかもが不確かな状態な中、写真が記録した「ここに確かに存在した」という証拠を眺めることは、もう一度自分が在る場所に地面を与え、地平線をもとに自分自身を含む周辺を把握する助けとなった。






私はこのプロジェクトを通じて、心理学と言語学的文脈で搾取的でない個人的な写真をやっていきたい考えるようになりました。

これからも細々と写真を続けていくつもりなので応援していただけると嬉しいです。みなさんと写真の話しができると良いなと思うばかりです。よかったらどんな形でも良いのでお話しましょう。最後まで読んで下さりありがとうございます。

ぜひ WEGNER COFFEE ROASTERS の web サイトを覗いてみてください。

 

wegnercoffee.stores.jp

 

煙 / Kaori

 

 

珈琲を眺めながら眠る


f:id:sasidzume:20220812145440j:image

 

8月になったと思ったらもう2週目に差し掛かっていることに気づく。多くの人がまだ7月のような気分だと言っているのだから1日の区切りを変えるべきなのではないのかと思う。この共通の時間に対する感覚と実際に進んでいる時間のズレはどうして起こるのだろうか。

1日が30時間なら毎日10時間働いて、10時間眠っても10時間の自由時間があって理想的だと思う。

あと3.5ヶ月でビザの期限がきれるので次のプランを考える。昨年には、このあと学校に行ったりしようかと考えてたもののあと1年ワーホリビザで今まで住んだことがない国に住むのもいいなと思ってイギリスのワーホリビザの申請をすることを心に決めた。今ある生活を手放して新しい生活を手に入れることへの快感がたまらなく心地よい。ダラダラの緩やかにかつ重たく継続していく生活に緊張や興奮をもたらさないと生きていける気がしないと改めて思い知った。1つの国や街を家だと決めて愛おしんだり安らいだりすることを諦めた。

毎日仕事ばかりしていて苦痛だけど労働をしない苦しさの方が恐ろしいので馬鹿みたいに働いている。

新しい生活を始めるために。

 

 

色んな事を覚えていない


f:id:sasidzume:20220614150859j:image

 

 

 

人の話を聴いていると頻繁に、よく出来事を事細かに覚えているなと感心することが多くある。私は誰かに昨日何をしましたかと聞かれると大体言葉に詰まってよく覚えていないと言いがちで、毎日何も記憶せずにぼんやりしたまま生きているみたいな気持になって惨めな気持ちになっていたのだが、

先日ドラマ『Euphoria』を観始めて、あぁ私の人生も主人公と似たようにある感情や感覚に支配されていて色んなことに気が回らないんだろうなと腑に落ちた。

おそらく私を占めている感情は悲しい・恥・孤独・嫉妬で、楽しいという感情が欠落している気がすることにも悩んでいる。

何故だか幼い頃からずっと孤独や疎外感を抱えながら生きていいるのだが、それらは周囲の人間が楽しんでいる様子を外側から見ている、また自分だけ同じものを楽しめていないと気が付くことから感じることが多いのではないかなと思った。

 

別に楽しく生きなくてもいいはずなのに、楽しく生きることを社会的に強要されている気がして窮屈な思いをする。

 

やりたいことがわからない


f:id:sasidzume:20220515235135j:image

先週末2日間の休日があったがやりたいことがわからず酷く落ち込んでいた。

数年前からずっと思っているんだけどもうやりたいことも行きたいところも特に無いんだよな。人と一緒に居たいという願望だけある。少し先の生活に希望が無い状態で生きていくことを続けるのは息苦しい痛みを伴う作業だ。私はきっと酷く疲れている。

昼過ぎに酒屋でワインを2本買って休日の外出は終わり、夕方から一人でお酒を呑みながらドラマを観て自分の人生から焦点ををずらして眠りにつく。

翌日仕事前にTwitterで人のやりたいことを読んだら楽しそうで少し回復した。

何も考えることがない日々


f:id:sasidzume:20220510171400j:image

 

 

 

先月の半ばからほとんど毎日体調が悪いので考えることのほとんどが体調のことで占められていて、不自由な生活を過ごしている。できるならっていつでも脳の半分を何か自分と遠くのもののことを考えることに使っていたい。生活のことで頭をいっぱいにしたくない。

 

先日、初めて映画を撮影する場に居させてもらう機会があり面白かった。

私自身が写真を撮るとき、一番に意識することはできるだけ自分の意図を加えないことであって、ああからさまに作り上げられた写真のことを大体嫌ってしまうが、映画はシーンをカメラに収めるために複数人で場を作ることが必要でありその行いに対して嫌な気持ちを1つももたなかったことがとても興味深かった。

映画を作ることは果てしない作業であることをつくづく思い知らされたのも良かった。

 

帰宅途中のバスの中


f:id:sasidzume:20220311051622j:image

 

自分はじっとしているのに、座っているだけで移動することができる乗り物のことがとても好きだなと、帰宅中のバスの中で思った。同じように退勤して家に向かう人々の服装を見て季節の移ろいを目撃する。

今年は冬の間に何度か春めいた気候が続く日があったが先週から正式に春になったと思う。春が嫌いな理由は無数にあるけれど、空気が澄んでないところと、パステルカラーに囲まれ黒を身に纏うことに負い目を感じるころが本当に嫌い。5月の訪れを待ち望んでいる。大好きな初夏。緑色の葉から溢れる光、涼しい微風。

 

今の街へ戻ってきてから3ヶ月と数週間が経った。その間に引っ越しを2回して、転職を控え、鬱が治って、恋人ができた。

3か月で自分の人生がすっかり変わることを実感して慄いている。自分の現在地と目的地がわからないまま移動する毎日が恐ろしい。

夏と秋が好きなのに季節が変わりゆくことに気落ちしている。このままの生ぬるい幸せがいつまでも継続して大きな選択をせずに生きたいと願いながら、心のどこかで劇的さを求めていて自分の将来がその方向へ向かっていくことを知っている。

 

 

単調な日常


f:id:sasidzume:20220210150610j:image

 

朝7時に設定されたアラームに起こされ、ベッドサイドテーブルに置いてあるグラスに入った水を飲みTwitterを開く。朝食にバナナと前日の仕事で貰ったパンを食べながら身支度をする。朝の1分は昼の30秒の時間でしかないと感じる。いくら早く起きても結局出しなにドタバタしてしまうのは中学生の頃から変わっていないが、幸運なことにそれが原因で遅刻をしたことがない。通学中に2回交通事故にはあった。
職場での1日が簡単に予想できるから、職場に行くのが憂鬱である。日本からここに戻ってきてからようやく、毎日が単調な繰り返しであると感じるようになった。笑っていないと憂鬱と焦燥感に襲われる。私はいつか、私の日常の退屈さを少しずつ諦めながら受け入れ、老いていくのだろうか。それならいっそう死んでみたい。(劇的で幸福に) Live or (静かに) Die の選択肢がいつも頭の中にあるがどちらも選ぶことができないでいる。お昼の休憩中に胸と喉の間や胸の後ろに痛みが広がって苦しくて泣いた。死にたいというよりも生まれ変わりたいのかもしれない。