Cross the sea

個展に行ったり詩を呼んだり人と話したりして急に日記を書きたくなった。定期的にこういう気持ちになるけれど日記を書くことはいつまで経っても続けられない。 

 

朝起きて、病院に行く前に3行の手紙を書きながら私は忘却のために言葉を使うことが多いとなと思った。頭の中に漂っている非言語的何かを言語化すると満足してそれを手放すことができることができる。だから記憶するために葉を使うことに興味がない。それは写真も同じかもしれないなと思っている。最近現像したフィルムの中に、記憶していた情景がほとんどなかった、フィルムカメラはよほど心が動かされないと使用しないのに。勿論、写真を見て想起させる記憶はある。忘れるために写真を撮るなら現像する意味がないかもしれないが、一度忘れた記憶を取り戻す体験が楽しいので続けている。

3行の手紙が海を渡る頃には私は書いた言葉をすべて忘れる。その手紙は届けられるべきではないのかもしれない。知らない街のポストオフィスの棚の隙間に落ちて一生見つけられないでいたらいいと思う。

 

フィルムを現像するまで、帰国のために2年間住んだ街からフェリーに乗って空港に向かう途中に見た海の光のことも、どうせなら曇りが良かったと泣きながら書いた言葉のこともすっかり忘れていた。

 


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I am slowly but surely carried by a ferry  through many particles of light on a bright day. 

As I am moving forward, memories which I have tried to hold on slipping my mind, and remain on the surface of the water.

I am looking at the different shades of blue, while you are thinking about dogs in a light blue room.

Crossing a sea is creating the past.

 

p.s. 英語の誤りは多めに見てください…学習中です